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2022.06.17

【前編】林の「動物病院経営奮闘記」~国内開業から海外進出までの道のり~

ノア動物病院 院長の林です。

私は現在、日本国内で4つ海外ではベトナムで動物病院の運営をしております。
そんな私のこれまでの道のりを赤裸々に記した経営奮闘記をみなさんにお伝えしていきたいと思います。

まず、ノア動物病院の歴史概要から振り返りましょう。
かなり激しい動きになっていますのでついて来てくださいね。


1990〜2014年までに怒涛の6院開院

1990年、山梨県甲府市城東一丁目にて、林どうぶつ病院をはじめて開院しました(1件目)。
その後、大学の先輩から諸事情により病院を譲り受けました。これが、林どうぶつ病院伊勢病院です(2件目)。

1998年には、二つの病院を副院長に任せ、アメリカのコロラド州立大に半年間留学しました。
帰国から一年後の2000年には東京都八王子市にてノア動物病院八王子病院を開院しました(3件目)。なんと、当時の動物病院ではまだ珍しかったホームページもこの年に開設しています。

そして、2001年に全ての病院の名称をノア動物病院に統一しました。

さて、ここからが本番です。
ノアの快進撃(笑)が始まります。

2004年には山梨県甲斐市敷島にてペットグッズの店、ペットフィールド店内のインショップに敷島病院を開院(4件目)し、山梨県内初の動物病院とペットグッズの店のコラボレーションとして話題になりました。

翌2005年には、CTを備えた現在の体制の中核となる城東センター病院を、城東一丁目から三丁目に移転しました。

2008年には伊勢病院をやはりペットフィールド新平和通店内に移転し、新平和通病院を開院しました。
また同年には八王子病院もみなみ野三丁目から七国二丁目に移転開院、さらに沖縄県浦添市に浦添病院を開院しました(5件目)。残念ながら浦添病院はすでに閉院しています。

そして、2014年に敷島病院をペットフィールドから移転し独立、新平和病院を閉院し、山梨県内初の猫専門病院、ノア動物病院Hako bu neco(ハコブネコ)を開院しています。

東京から1時間半の甲府をスタート地点に選んだワケ

では、なぜ甲府で始めたのかをお話ししましょう。

私にとって、甲府は元々縁もゆかりもない場所でした。
当時も今も、開業する場所は自分の実家の近く、もしくは関係者(例えば奥さん)の地元が圧倒的に多いパターンです。ちなみに私の実家は東京のはずれ、日野市でした。

では、なぜ甲府なのか?
かっこつけて言うと“成功するため!”でした。

実のところ、当時の甲府はリニアモーターカーの実験線候補地で、場所が甲府に決まった時は町中その話題で持ちきりでした。
リニア=新幹線=都市の発展という図式で、実験線ができればすぐに実用化され、甲府はもっと活気のある都市になるというような勢いでした。

しかし、実際のところリニアの開業は2027年の予定ですが、今の情勢では難しいでしょう。
このころは、とにかく日本中が好景気、そうバブルが崩壊するなんて誰も考えなかったあのバブル絶頂期でした。
そんな中、将来の全国展開を考えていた私は、地方に狙いを定めたのです。

人口が20万人から30万人で、東京から一時間半の甲府は私の理想にうってつけの場所でした。
また、運良くこの話が実家近くの地方銀行の支店長からきたということも、トントン拍子に話が進む要因でした。こうして、私のスタートとなるはじめて病院が甲府に誕生したのです。

犬と一緒に除夜の鐘を聞いた下積み時代

では次に、私の下積み時代についてお話ししておきましょう。

私は1988年に北里大学獣医学科を卒業しました。
卒業と同時に国家試験も一発で合格しました。というのも、当時の合格率は全体でも約90%、私の同学年は95%近くの合格率でしたので、落ちる方が珍しかったのです。

国家試験合格後は、一般の動物病院に就職しました。
当時は勤務医という概念がなく、院長の助手として研修する代診と呼ばれるものが主流でした。

私が修行を積んだ病院は症例が非常に多く、同じ年数研修していた同期の仲間たちと比べれば、めちゃくちゃ働いた!という充実感がありました。
よく言うのですが、年間1,000件の症例を扱う病院と10,000件の症例を扱う病院では経験値がまったく違います
多くの症例を見聞きし、経験すれば当然「この病気に遭遇したことがない」ということが少なくなり、それが自信につながります。

このときは本当にがむしゃらに働いて、たくさんの症例を経験しました。
除夜の鐘を患者さんの犬を乗せた往診車の中で聞いた経験をした人はそうはいないでしょう。私もその時が初体験でしたが 、後にも先にもそのような経験をしたことはありません(笑)。

その病院は特に夜間診療の看板を掲げていたわけではありませんでしたが院長は夜に電話がくればいつでも診察していました。年齢は60歳を過ぎていたにもかかわらずです。

そういう姿勢を見て「獣医師はこうじゃなくてはいかん!」という思いもあり、私も開業してすぐに24時間診療の体制をとりました。
休まないことくらい大したことではない」と気合いが入っていたのだと思います。今は遅い時間にはすぐに眠くなってしまいますがね。

飼い主さんのニーズに応えて「行列のできる動物病院」へ

夜間診療をはじめて最初はこじんまりとやっていましたが、だんだん患者さんが増えたためにスタッフも増やし、交代で診療ができる体制にしました。
おそらく当時24時間体制で診察をしている個人病院はほとんどなかったと思います。

山梨県の動物病院の多くは9時〜19時の診療時間で、遅くまでやっている病院でも21時には閉まっている状態でした。
しかし、それでは困るという飼い主さんがいることは、昔も今も変わりません。
生き物だからいつ具合が悪くなるかもわからないし、昼間働いてる人もなかなか診察に行けません。

だから、いつもは他の病院にかかっていたとしても、うちに駆けつけてきた患者はまず診察して、翌日はかかりつけの先生のところに帰れれば…というスタンスで夜間診療をやっていました。
誰もやってないなら自分がやるしかないですからね。

このころはシベリアンハスキーが大流行し、世の中はペットブームの最盛期(今はほとんどみなくなりましたね、ハスキー)。
当時は、宣伝なんて何もしなくても患者さんがたくさん来て、寝る間もないくらい働いていました。
まさに“行列のできる動物病院”でした。そのままのタイトルで新聞にもよく載りました。

動物医療を人間と同じレベルに引き上げたい

私は今でもバイタリティがあるほうだと思っています。

大きな意味での動物の幸せや、若い獣医師を育てることなど、診療以外のいろいろなことに目を向けています。
でも、そのころのバイタリティは今以上にすごかったと思います。
とにかく来た動物を治す、病気を予防するということをひたすら一生懸命やり続けていました。

今でこそ、フィラリア予防やワクチン接種は当たり前ですが、当時は予防という考え方はまだまだ浸透していませんでした。そこで手描きのポスターなどを作って啓蒙したりもしました。

動物の病気は防げるものもあるということを知らない人に伝え、実行してもらうことは、プロとしての使命です。
悪くなってから、ぎりぎりで駆け込むのでは助からないこともありますよね。

当時からなるべく人間の病院に近いことをやろうと思っていました。
具合が悪いときに注射を打って様子見を見るのではなく、血液検査などの各種検査を行なってきちんとデータをとりました。これは今ではどこの病院でも当たり前のことです。
ところが当時は今ほど血液検査やレントゲンを積極的に行う動物病院は少なかったです。
そのうえで、インフォームドコンセントをしっかりして、治療方針を決めていくことも大切にしていました。

また、今まで当たり前だった受付と動物ケアスタッフの兼任という仕事を、受付として独立させることで会計時の待ち時間を減らしたり、専任としての誇りをもって仕事をしてもらったり、ホスピタリティの面でも動物病院としては先進的なことをやってきたつもりです。

さあだんだん激しい動きになっていますのでついて来てくださいね。


今回はここまで。中編に続きます!

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